「自分がそうなってみないと判らない事」

 

 

 そう言う事って

結構写真やカメラの事でもあるなぁって思いました。

 

 ひとつは、

良い写真を撮るには良い被写体や良い光景に出会わなければならないし

そこにカメラを向ける為に足を運ばなければならない事。

もちろん、自宅とテーブルの上にも世界は作れますけど、

今回はそれを差し置いて。

 自分で都合を付けなければならない事が前提でもあって

さらに、それを受信しなければならないし、感じて撮ろうと思わなければならない。

だから、出向こうとしないと無理であって

そう出来る都合やスケジュールを作れない今、

あらためてそういう都合に流れられたら撮るものに困らないのになぁって思ってしまう。

 

 ひとつは、

色んなカメラやレンズ、メーカーを使ってみないと判らない事もあるって事。

溺愛でひとつのメーカーや拘りをもってツールを扱う事はもちろん大事なんだけど

どうしてあの人はそう撮れるんだろうとか、

あの描写で撮れるんだろうって事も多々生まれます。

その要因は人なのかツールなのか、それ相乗の扱いなのかも

体験や体感あって判って来る事も多く

絶対音感と相対音感の差って、音楽と違ってカメラのツールを扱う際も

すり減ったタイヤから同じタイヤでも新品になっただけで快適になる

比較や体感と同じで基準点や基本地点の軌道修正は出来た方が良いかもしれません。

 買える買えないも大きな要因になって来るし

必要と思う思わないも、

例えば大口径レンズのボケ、

フルサイズのセンサー比から来る絞りに対しての絶対ボケ量もそう。

そうで無くても上手い人は上手いで済ませるのではなく

知っている知っていないで済ませるのではなく

体験体感して把握してどう扱うか、使えるか、使いたいか、使いこなせるかの

そうした部分の経験は少ないよりも多い方が邪魔にならない。

 

 生活環境や生きるうえで置かれた環境、

そこから来る経験とか体験や、価値観や感受性は

当人だけしか判らないものなのか、誰しも味わったときのあるものか

当人だけが現場をふんだからそう見えるものなのか、誰しも万人の感動なのか

そうした見聞量でも随分変わって来ますね。

 

 動ける時間があるかどうか

 

 カメラを持つ気持ちを作り続けられるかどうか

 

 良い機材を

使いたい、使ってみたい、そんな機材を手にする機会を作れるかどうか

 

 今日ここまで

僕的には結構、努力して工面して都合を付けて来たけれど

途端にそれが上手く回らない事って人生の中ではあるもので

それは周期的な事かもしれないし

突然巡り回るものが良い事もあるだろうし

もう同じような恵まれ方を出来なくなる事だってあるだろう。

 

 置かれた環境の中から生まれる写真が

誰にも無くその人らしいものとして撮れる事は判っているけれど

 

 自分がそうなってみないと判らない事って

結構あるものだなぁと、今日は思いを巡らせています。

 

 

 

 

 

 

 

cozy

 

2013/01/07