やっぱり思う写真の煮炊きの件


      写真が好きで愛すると

人によってはRAWで撮って撮影時間以上を

写真の調整に使ってしまう事もあるんじゃないかと思うんです。

 

 それを

お米や肉や料理として例えてみると

一度水を吸わせた込めや火を通した肉を

プラモデルを買い直して作り直すのとは違う事が言えたり

 また

写真はシャッター幕が閉じた時間に収穫が終わるのではなく

8割の写真としての意味が完結していなければならない世界ではないかと

ふと今日は思いました。

 

 フォトグラフ、フォトグラファーと言う言い方をしますが

フォトの部分の後のグラフの部分

撮った後の煮炊きに精魂使い過ぎるのは

写真家、写真屋ではなく、絵描きとかグラフィックとかデザイナー要素なのかもと。

そう思ったのです。

 

 良くあるケースであろう

「過去撮影したものを新たにレタッチしました」的発言。

仕上げや見せる要素の効果や説得力は増す事も多いだろうが

撮られた素材の構図や絞りや設定や撮られるまでの行程は

絶対に帰る事も変化させる事も出来ない事なんですよね。

もちろん、上手い引き出しをして仕上げ直したら

当時見えて来なかったものが浮き出て来る事ももちろんあるだろうし

僕もそう言うケースで大事にしてゆっくり仕上げて成果の出た写真もある。

 

 でも

撮って取り込んで、ぱっといとも簡単に仕上がった写真で

その後何年見返しても揺るがない仕上がりの写真って言うのもまたあるもので

そう言う写真はその先も不偏の一枚なんだろうなって思ったんです。

 

 難しいシチュエーションではチャンス優先で

もちろん現像でどうする事まで念頭に入れて撮る事もある。

風景をメインとした星空とかももちろんそうだ。

 

 でもそう言う例を除いた場合

多くの人が撮影後にいじり過ぎて可愛がり過ぎて

発表したけどあまり受けないから色温度を変えたりレタッチし直したりして

これならどう?こうしたらどう?って

顧客の顔色を伺ってしまっているのではないだろうか。

 

 今日の僕は

自分の撮った一枚の写真を

お米のように扱いたくています。

 

上手に炊けたらそれがそのままで一番おいしい

 

おいしい料理と一緒に食せば尚よろしく

 

栄養になって

 

欠かせないものとなって

 

火を入れ過ぎたり炊き込み過ぎたりして

お粥やリゾットになったお米はそうした前提で料理しなければならず

煮込み過ぎたり焚き過ぎたり

水加減火加減が悪かったしたシャッター前の行程行為は

一度グツグツしてしまったお米のように

どうやっても取り戻せないんだと言う写真を撮りたい。 

 

      そんな

撮ってからのレタッチに頼らない

いじりすぎるお絵描きの面白さを写真として良しとしない

現場の感動や素敵や衝撃や色や温度や光や影、

そんな写真を生んで行きたい。

もちろん想像創造写真は別だが。

 

 僕は卓上でどうにでもなるグラファーではなく

フォトである写真家の一員、撮り手でありたい。 


2012/11/07