一枚を大切にの意味


      はき違えてしまう事が多い気がします。

 

 私が今年ダメな理由は枚数の少なさが自分でとても大きいと思っていて

それに加えて一枚を大切にするから公開枚数はもっと少ない訳で。

つまり多い少ないに限らず、撮影したものは

吟味とセレクトを怠ってはならないと思うんです。

 

 フイルムだと限られた制限があるからと言うけど

それは、ああかな、こうかな、別アングルならどうだろう、絞り違いはどうだろう

露出違いも本当は欲しいなと、デジタルならその都度押しているシャッターを

フイルムではデジでの見せるにあたっての吟味とセレクトを現場でしているだけで

反応としてはデジだろうがフイルムだろうが

心の反応とああかなこうかなの心理回数って

実はあまり変わらないのかもしれないと思うんです。

 

 よく年がら年中これでもかのアップするアマフォトグラファーを見かけるが

見聞のまばたきの差ってそこには無くて

プロとかアマとかデジとかフイルムとかの差でもなんでもなくて

それは撮影が悪いとかリズムが悪いとかでなくて

ただ単に、吟味とセレクトの大きな欠落と怠惰でしかないと思うんです。

 

 なんでもかんでもミテミテ公開した後に

そこからアルバムに間引いて纏めるのであるのなら最初からその吟味分だけ見せる方が

何倍も説得力と写真の魅力と充実を伝える事が出来ると思います。

吟味もセレクトも必要がないのなら写真展も写真集も必要なくなります。

 

 沢山撮る事ってとても大事な事で

今年の僕に一番出来ていない大きな欠落とダメージで居ます。

 

 だけど

沢山撮れる人が撮った分を全部沢山見せるのではなくて

撮る時間の無い人と見る時間の無い人の

目と足を停めさせられる適宜な枚数や丁度良い量を見せる側も発信して

良い具合の釣り合いと言えるのだと思うんです。

見る時間の限られた人は

吟味もされていない多量発信の人の情報は

最初に大盛り過ぎる前提と分れば脳が反射的に負担と苦痛が働くのを制御するため

最初から軽視閲覧を促すものとなってしまうものです。

 

 将来残せる色褪せない写真って限られたもので

それは当人が思うものと人の反応評価も違うから面白いものでもある。

だから多くを見てもらって反応の差異を確認するんだって言うのは

正解のようで間違いな気がする時があります。

 

 コンペに10枚の枠の中、選ばれた一枚より本当は僕はそっち推しなんだよねえ、

そんな感覚のセレクトが見せる数と枠として丁度良いはずなんです。

コンペならセレクトから外す枠の写真を何でも見せられるのは

時々見せられる側からするとそんなに沢山見せないでくれと思う節も生まれます。 

 

      一枚を大切にするのは全方向から大事で

下手ならば一枚を大切にする前に吟味とセレクトを大切にするのがポイントなんだと思います。

初心者やいくら経ってもうまくならない人に限って多くを見せたがるのです。

逆にベテランは見せなさ過ぎで吟味とセレクトに拘り過ぎで

大切を通り越して一枚への固執が濃過ぎて説得アピールが今度は煩いですよね。

 

 

 自分は上手いのに、自分の想定と反応が違うなあと思う頻度の多い人は

一度心に手を当てて自分に冷静に正直になってみて

人気と評価のバランスの良い人の

セレクトと吟味と見せ方を見習うと良いと思うんです。

 

 撮る枚数と良い写真が生まれる枚数って

人によって差があったとしても、

多くは感じて撮れたと自負できるシャター数に比例して

そうした所から生まれる人の目に触れた瞬間からの正直な反応やレスポンスが

褪せるか褪せないかの鮮度の差になるはずなんです。

1枚を大切にする事の前提は人の目にどう触れさせて歩かせるかなんだと思います。

 

 

 評価と反応を得たいなら見せる事です。

 

 評価と反応が悪いなら吟味とセレクトを考えるべきです。

 

 

 オレは人の感想なんてどうでも良いよと言うアマでキャリアの長いベテランさんは

見て欲しい、反応が欲しい、評価が欲しいと思う時期に

自分が得たい良い反応が貰えなかったトラウマを抱えているんじゃないでしょうか。

 

 見せないで終わってしまう写真は沢山あっても良いんです、

そんなに沢山見せんなよと言われるくらいなら。

 

 でも、

一枚を大切にしたいのならば、

人にどう触れさせるかを考えてみるのが良いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

cozy 

 

2013/09/01