標準感覚

 写真を作品として扱うようになって

普通だなぁ、個性無いなぁ。。

そんな間隔を覚えた事って誰しもあると思う。

 

 でも、それも少し離れた冷静な目で見た時に

「俺って個性的だから、万人にはわかってもらえないんだよなぁ。」

って言って空回りしてる人に、オエぇーってなりません?(笑)

個性って、自分で主張するものではなく

周りの人か判断したり決定付けるものなのかもしれません。

 

 自分のフォトスタイルって誰しも固めたくもあるけど

良くあるアマの個々のフォトスタイルって、

ある意味で、それしか上手く無い、それ的なものしか撮れない、

限られた範囲でしかウケない、特定の少ない人にしか認めてもらえていないって、

それだけ方がきっと多いと思う。

 

 ヒット曲やアイドル、ポップスだって

ひとりひとり個性の全面よりも、

そのカテの中の万人性や基準指標はどえらく外れたりして居るものは無く

ある王道やお約束的な安心成分が含まれて居なければならないもの。

その中でどれたけ惹かれるものがあるかと、光れるものがあるかの世界でもある。

 

 一匹狼的なフォトグラファーでも

仕事として受け入れてもらう事、発信に必要な人との繋がりや関わりの部分では

ツッパリ不良のようにはしておれず、

どこまでも浸透親和して行かなければならないもので。

 だから、ネットで強がってるアマの写真撮りの人の中で

自分は個性的で強い主張のあるのに何で反響は少ないんだろうって

そうつぶやく人を目にすると、そりゃぁー人に対して尖ってないで

写真のトータルでジャンルの中で飛び抜けていないからだろうに、、、

って思われるものが結構と言うか殆どではないだろうか。

 

 時に

標準的な人生観や、標準的な人間としての感覚の部分、

ニュートラルに世間が見れたり

ど真ん中はどこなんだろうって事がわかっている事。

人生の見聞や体験が尖った偏った人生だから個性になると言うだけではなく、

どれだけ多くの人の気持ちを判れる人として生きて来たかを踏まえた上で

沢山の標準指標が判った上で自分が表現したいもの、見せたいものが

万人が目にしている中で、その人だけが写真として撮れたものや

撮れたものを表し方の工夫や見せる表現の工夫や発信センスの部分なのでは無いだろうか。

 

 風景写真などから、この先の時代に

ポートレートやスナップ写真家に見る個性のようなものが

もっと生まれるようになるのには

バットの真芯を捉えるような標準間隔も持ち合わせた上で

更にスター性をもった人間でなければならないのかもしれないですね。

 

 ここ近年鉄道写真の中にもスターアイドル的な人が確立して来たと思う。

それは後にそのジャンルのスタンダードになる。

他のキャリアの長い標準的な写真家が普通過ぎてつまらなく見えてしまう感覚、

 ポートレート写真家ももう大御所しか認めてもらえない時代。

新鋭や若手は写真かCGかデザイン画か境目が判らないものが多かったり

そうせざるしか自分のポジションを空いた隙間のニーズを埋められない感じも見える。

スナップ写真家にしても、数万円のミラーレスを買ったアマの人の

付属のアートフィルターの写真に負けてしまう時代にもなった気がする。

 フイルムの味、レンズの味、

それもまた

時代が感じるもの、欲するもの

いろんなスタンダード、幾多の受け手と言う意味での客層の思考の真ん中は

世代や時代と趣味のベクトルが細分化多岐する中でヒットのバットの芯は

スイートスポットが変わって来る。

 

 個性が変わらずとも時代が変わる事もある。

 

 人の感動する物や

人の受け入れる評価の標準って

とても確固たる時代の真ん中ではあるけれど

とても流動的なものでもあるようにも思えてみたりするものですね。

 

 

 

 

 

 

  cozy 

 

2012/06/13