フォトライフとマイライフ

 愛犬はなの様子が厳しい。

何をするにも気もそぞろな本日のメンタル。

はなの具体的な具合をここでお知らせする気はないので省きますが

色んな事が頭をよぎります。

 

 それでも日常日記でもなく

僕にはフォト記として記したくキーボードを叩きます。

 

 カメラだ写真だレンズだというのは

こうなると頭の中に無くなるものだと言う事が

一切頭に浮かばなくは無いって訳ではないのだが

 

 寄り道や遠回りをするならば

その分を愛犬についてたいと思う事や

 

 はなの介護をしていると

過去に母が祖母の介護をしていた事がとても思い浮かぶ事や

それはストレスや葛藤や苦悩や疲労の部分や

その母と祖母の2人の距離感や密度などの色々

 

 そうしたあれこれには

そうしたメンタルやら感情やらだけでなく

出費とかも

経過と共に無くなる時間ではなく

ふと過ぎていたとても言う感じだろうかな時間とかも

 

 なんだか

40年も50年近くも生きて来ても

見て来た体験や得て来た情報だけではどうしようもない

未経験と未体験が訪れるものでもありますね。。。。

 

 

 

 

 私はワンコしか家族は居りませんが

家族の最後の日まで全てを写真に収め

撮るべきか撮らざるべきかを自問自答したが

撮って良かったという人も多い写真愛好家の人の気持ちが正直今はわからない。

 人に見せる見せないと関係なく撮らないでおくと後に後悔するのだろうかと考えても

もう今は居ない父の事も母の事も爺さん婆さんの事を考えても

そうした最後の期間間近の記録は無い。

そう言うものは撮っておくものではないという家庭環境とか見聞だったのかもしれない。

 

 フォト繋がりの方々の中で

病床の家族の写真とかを見せて頂く事がありそれは僕的に全然否定もない。

その方の撮って良かったメモリアルでもあるだろう気持ちもわかる。

中にはそんな所まで撮るもんじゃないとか、見せるもんじゃないと言う人居るし

その気持ちも分るけど

僕は不思議にそうしたものを見せてもらう事にも抵抗はあまりない。

 

 

 ただ、

僕自身はそうして誰にも見せないにしても見せるものにしても

そうした時事は撮らない方のタイプかもしれないと思ったのです。

これは性格だったり持論だったり色々だろうけど。

 

 僕は

爺さんも婆さんも父も母も目をつぶって脳裏でそこのタイムラインの再生は浮かぶ。

それは、時には忘れていても、時にどえらく鮮明なもので。

でも

なんだかそれを伝記のように残したり

有名人や著名人のそれのように壮大に写真記録を残そうとかは思わなく。。。

 

 だから

僕の家系図は僕で最後で、もう誰も続かない最後の記載は愛犬はななんだろうね。

 

 

 

 フォトライフの欠かせない理由に

マイライフの全てを余す事無く残しておきたいからというのは

大半の人の理由のほぼを占めるものだろう。

 

 僕は

そう思える人は自分がそう思い残したいと思う気持ちの分だけ

家族や大事な人やらに同じだけ見つめてもらっている人だから思える事なんだと思う。

 

 

僕はカメラを持っているから写真好きなりに撮影はして来ているが

この先の覇気のない表情を残したいとは思わない。

闘病の格闘も残す気はさらさら無い。

撮っておくべきだったと後から後悔も無いはずだ。

もう居ない父の事も母の事も

家族の事もの名字の変わった娘や前妻や恋人や友人知人の事も

振り返って記録の少ない事、殆ど無い事にも後悔が無いからだろう。

 

 

 

 

 時に

写真はとても撮っておいて良かったとなるものだけど

十のうち一でもそう思う気がするなら見返す見返さないを別にして

撮っておけば良いだけの事。

 

 

 

 僕は

全てのマイライフは

脳内で逐次タイムラインは完結している気がしていて。。

僕がアルツハイマーになった後は写真が残っても自分では見返せない訳だし

誰かに見返してもらいたい訳でもないし

誰かが見返し振り返りたいならきっとその人が自らシャッターしているはずだし。

 

 日本を動かしている訳でもないし

震災で伝えたい事や戦場からでないと訴えられないメッセージを残す訳でもない

 

 

 僕の人生を残すのならば

僕を死んでも消したくない人が撮るべきで

僕が自分自身をセルフする気はないのだと思ってるのだと思う。

プロフィールにも自我姿を表さないのもそのせいもあるだろう。

 

 

 

 家族の写真があまり無い事も後悔は無い。

愛犬の苦しい顔は撮りたくない。

 

 

 

 僕は

写真の枚数の多さや画質の良さを残すフォトライフよりも

振り払っても払っても消せなかったり脳裏に浮かんで消えない事といった

マイライフの密度を最重視して最優先するタイプなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 写真を撮る事に必死になって観光した記憶が薄かったり

運動会で我が子を撮る事が必死で何も覚えていない写真好きだけのバカ親と真逆で

相当写真好きではあるがそうした場ではきっとi

Phoneだけで良いというパパママと同じ量しか撮らないだろう。

 

 

 

 

 今日は

愛犬が自力で立てない事が多く

自力で水をうまく呑めません。

お医者から帰って来た時は皮下注射が効いてくれたのか少し良かったのだけれど。

 

 

 

 そんな時

片手で撫でて片手にカメラなんて考えられません。

落ち着いて眠っているからと言って撮る気なんかさらさらおきません。

 

 

 そんな気持ちの余裕があるくらいなら

その瞬間は両手で抱きしめたいのです。

カメラなんかぶん投げて全身で抱きしめるべきなのです。

 

 

 写真を愛するにおいて

 

 家族だけでなく

風景でも運動会でも肌や身体や全身で感じるべきて

何でも本来はそうであるべきなはずです。

 

 

 

 写真家やメッセンジャーとしての任務や観点はまた別に置いておくべきですから

そうした使命のある人の行為や行動は全然否定はしませんし

カメラを欠かせない愛好家の事も一切否定もしないし気持ちも分るしでもあります。

 

 だから

健常な時やメモリアル、記念日とかに

写真館に行っての記念写真や、家族旅行の際の観光定点での記念ショットや

結婚式や運動会やでの写真って

他人のものはツマらなかったりもするけれど

とてもとても愛おしく欠かせなく大事なのかもでもありますね。

それを素敵に残せれば

なおいっそうフォトライフは欠かせないとも言いたくもなる気持ちも分りますね。

 

 

 

 ただ

僕はそうだと言うだけの事なのです。

 

 

 僕は

写真に焼き付ける事よりも

人生において心と脳裏の焼き付きの強さを重視する生き方をしたいのです。

 

 

 

 

 

 

 はな

 

 愛してます。

 

 

 

 

 

 

 

はなのそんな中

どうにか穏やかな寝息を横目で聞きながら

cozy

 

 

 

 

 

 

2013/06/05