喜怒哀楽

 写真で喜怒哀楽は基本の表現でしょうか。

写真の中に決定的に一喜一憂感、明暗あるものは

それは間違いなく明瞭な印象を持って発信側も受入れ側も解る訳。

そう言うものを生み続けるのは当然かもしれないけど

 

 その一方で

幾多もの解釈をする事が出来、

その日その時の気分や直前に見聞したものとの対比から

印象がガラッと変わるかもしれないものもある。

仮に隣りにある写真と並べて見た順番ですら解釈に変化が生まれる事さえあるもの。

 

 だから

長い年月の中で自分のフォトスタイルはこれだと固まった人

そうした確固たるものへ実固めして行く人

そうしたものを見習いたい時と

全く逆に、そうなっちゃいけないと思う時すらある。

 

 喜怒哀楽がコロコロ変わるのは

日々の出来事だけでなく、

写真を数枚見ただけ中でも起こりうる事なのかもしれませんね。

 

 それとは少し離れて、

これに起因する僕の身近な中で一番の基礎哀楽に起因する

愛犬ちゃん

「はなちゃん」

高齢なのでちょっと連日具合が悪く気になって仕方がありません。

いつも足元に居る番人さんがテンション上がらずだと

やっぱ元気も覇気も出ないものですね。

 そうなってくると

気持ちが写真どころではなくなるものです。

愛犬を撮り残そう、そう思う気持ちが強くなるのかなと思いきや

やはり、良い顔をしている事、これが誘発させてくれるものだし

はなちゃんもオンナノコだから素敵な姿を残してあげたいし

そういう姿を沢山撮って来たから疲れた病んだ顔は

ドキュメントとして報道するものではないし

僕やはなちゃんを愛でる人達だけの中のもので良いんだと思う。

 

 もちろんこの先も

きらきら元気な顔をしてくれたら

カメラで追いかけますけどね。

 

 愛犬から

喜怒哀楽と言葉でも上手く残せない何かとか

写真が好きだからと言って、

何でもかんでも表面の手段としなくても良いんじゃないかと言う事とかを

何だか教えられている気もします。

 

 今の僕の感情は

弱音を吐いたら一気に力が抜けて崩れちゃう気がして

喜怒哀楽をセーブモートにしています。

だから、

撮影もセーブモードにしています。

何かのせいで、そうなっているんじゃなくて、しています。

 

 喜びも悲しみも、

痛みも辛さも、時代もスピードも大きい小さいも

慣れや錯覚、常のものになった時と、突然変わった時でも

喜怒哀楽って変わって来ます。

 

 僕は

もう少し、喜怒哀楽と上手に付き合えて行けたらなぁと思いつつ

喜怒哀楽は上手にコントロールするべきものと思う時を

心素直に内から出て来てしかるべきと思う時との

 

 今はそんな狭間に居る昨今でした。

 

 

 

 

 

 

 

cozy

2012/06/10