光線の刺激


 ここ10年くらいで

日常生活の中でもチカチカする光とかが増えた気がする。

それは地デジの画質とか明瞭感にしても

テレビの画面の大きさ、Macやパソコンの画面サイズの大きさ、

バックライトの光の強さと言ったものもあるし、

その光の強さは生活や時代全体の光の強さでもあり

東北の震災で一時街の灯りが長らく消えた時にも痛切に思う事でもあった。

 

 ここ最近の生活の刺激の少なさもあるのだろうが

まず、日々のFBやツ行ったーの更新をMacの画面で確認するだけで

光の刺激に目がシバシバする。

ネットでの写真更新をチェックする事でもそう。

失礼ながら良くない仕上げのアンシャープマスクや

過度なシャープネスのエッジだけでなんだか目だけでないダメージを食らうよな感覚。

 

 先だっての事、

猛暑&蒸し暑く、空模様も中途半端、

時間的にも遠出や意識的に撮影被写体を拾うには色々半端と思い

涼むに良いだろうと、ふと1円パチンコ店で数千円分涼もう、運良きゃタバコでも、

と、台を回したのだが、最近のパチンコ台の光って白色LEDのパンチがハンパ無いんですね。

あと音のデカさ、その両方もあり財布のダメージがプラス数千円とタバコ2つの収穫があっても

目と耳のダメージと、外の空模様が気になってじっとしていられないと言う

写真愛好家のサガがあったり、場所が違えば集う人も違うし、

娯楽と欲の狭間という人間観察や社会勉強としては面白かったが、

私の弱い目と身体とメンタルと博才では通年の楽しみにはキツい気がした。

 

 音楽とか映像もそうで

ライブDVD的なものやPVのようなものをようべつ閲覧してても

Macの24インチフルスクリーンで夢中になっていると、あっという間に過ぎた数時間の後の

目のダメージがなかなかキツい。

元音楽プレイヤーでバンドマンでライブをひっきりなしにしていた身なのに

爆音でバンドやライブ、ライブバーのマスターもしていたのに、もう目も耳もついて行けない。

その後の目の軌道修正が出来なかったりバンドやパチンコ台レベルの光と音量を浴びた後

どうにも自分の身体のリセットが利かないのよね。

生のライブ環境の中に飛び込んだらどれだけ良い刺激収穫があるかなど重々解っているのに。

gacharic spinのようなベースとドラムの良いライブであれば目と耳を壊してでも飛び込みたいんだけどね。

中途半端な地元のアマバンや中途半端なショウで目と耳にダメージある事は

勿体ないというか、避けたい気分な昨今。

以前、娘がバンドをやりたがっていると前妻が話していた事に嬉しくウルウルだったんだが

30年もバンドの渦に揉まれていた自分の身体そのものがついて行けない事がなんとも切ない。

音だけでなくそれは目の刺激、味わえる高揚や効能も含めて。

 

本音、

最近では朝夕の魅力満点の光をファインダーで覗く事が

何だかキツい。

ヘッドホンで適音で楽しむ以上の大きな音もキツい。

川のせせらぎや木々のさわさわする音へ

知らずのうちに身体がチューニングされてしまっていたようにも思う。

光学ファインダーなら快適だろうとは限らず

D700やD610の快適なファインダーですらな事であって

逆に144万画素EVFのオリのファインダーとかそれ以上のα7クラスのファインダーの方が

この先の僕のフォトライフの目にとって良いんじゃないだろうかと言う事すら過っている。

 

 フォトライフの心配は

人生そのものを生きる環境のボリュームと意外にリンクしていて

どこかで目や身体がついて行かない事由が

写真愛好家である事すら衰退の追い込みになるなんて。

こういう事は

ほんと歳を取らないと判らない事ですねぇ。。。

 

 今、

そうした身をもって感じている事は

何かしら感じた事として表現出来るようでありたい。

どんな形かは目や耳や身体が苦痛と苦悩でない余裕が無いと出来ない事かもしれないから

 

今を大事にする事や悔いの残らないようにする事は

僕自身を労る事や

逆に駆使する事や

僕自身を僕自身がどう扱いコントロールするかにかかっているのだろうと最近思っている。

 

 

 

 

 

 


2014/07/20