「人は変わるか?」

 

 はなちゃんを助手席にお医者の朝夕の往復、

嫌みなくらいに写真映えしそうなどえらい良い感じの焼け具合の夕空

そんな日が数日続いていましたが

車も停めずカメラも構えず点滴の送り迎えをする事も

年齢からお別れも近いかなと感傷的になりつつも

なんじゃこりゃな回復力の彼女に連日悔し涙とうれし涙を繰り返していたら

写真がどうだこうだの感情が僕の中にすっかり無くなっている事に

常にしていたフォトサイトへの未アップが溜まりつつも

まぁどうでも良いかって感情になって、

その常の中から写真になるものを拾い集めていた感覚がない事にふと気付いた。

大事な事と優先順位が変わるとこうも違うもの。

 

 でも考えてみれば

ちいさな子やお年寄りが居ればママさんや奥樣方ってそう言うものだし

僕みたいな男子でもシングルファーザーだったり

騙されて保証人になったとかのドラマみたいな事な人や

まぁ例えればきりがないけど、写真が好きでも撮れない人は多々。

僕が今日までどこまでも綿密に写真に都合を付けられ続けた事の方が

逆に世の中で言えば少ないケースなんじゃないかと思えて来たりして。

もっと大変な人の方が絶対に多いはず。

間違い無く。

 

 良い波がどんどん大きくなる事もあるだろう

 

 悪い波が掻き消せない周期になる事もあるだろう

 

 変わる変わらない、変われる変われないではなく

変わらざるを得なかったり、知らずに変わっていたり

 

 意識の有る無しも含め、転機でもなんでもなくも

 

 単なる波や周期でもなく

都合も波も運も変わる事があるもので

 

 それが良い悪いでも意識の有る無しでもなく

いつかフォトライフの中にも振り返ればきっと変化として見えるのだろう。

 

 それは

 

 もしかしたら

何かが変わったと言う事ではなく

 

 我慢も苦労も、

それがずっとの事になれば当たり前の事に過ぎなかったり

何かの出来事の変化が

その事以外の何かを大きい事から小さい事まで

良い事も悪い事も、新しい未体験な事も、こんな事もまたあるんだなと言う事も

色々に何かの変化が

 

 この先少し余裕が出て、それでも写真を撮り続けていたら

ふと写真を振り返る事があったら

何か今日の時点で決定付ける明確な言葉が無くとも

何か面白いものが残っているのではないだろうかと

今日の僕は思う。

 

 人は

環境や事情は意識無意識にかかわらず変わるものだけど

 人は

変わるようで変わらない事も多く

変わりたくとも変われない事も多く

変わった気が無くても知らずに変わっている事も多いはず。

 

 写真は

そうした今は答えの無いものを

何かごまかせない答えと結論を

その当時では見えなくとも振り返った時にうっすら分る片鱗として

刻んでしまうものではないのかなと思えたら

 

 

 

 今は

撮り歩ける都合も激減のシャッターなフォトライフも

 

 このままでどうしようもない事を

撮れない頻度からとか、数の無い残った写真からとか

 

 

 記録だろうか

メモリアルだろうか

必然だろうか、ふと不意にだろうかは分らないけど

 

 

 

 

 

 

 

 絶対何かは残るはずなんだと思うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 めまぐるしく何かが変わってゆくのに

何も残せない今がなんだかもどかしいけれど。

変化でも変身でも、進化でも退化ともまた違うけど

 

 

 

 

 僕の人生の

露光も構図も画角も

 

 

 僕が何も変わらなくとも

出来事や物事が変わる事で毎日の中の変化が生まれているのかもでもあります。

 

 

 

 

 愛犬の寝息が穏やかなだけで

何もせずに終わってしまっても嬉しい事も

いつかしら果敢にフォトライフする時が来た時に

不思議なフィードバックとなる事だろうと僕は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

cozy

 

 2013/06/11