本当の心情

 本日アップした写真は

僕の中では今までに無く本心を伏せたキャプションを書いた。

理由は

「本心を語っても伝わらない僕の内心がセレクトさせたものだから」だ。

 

 状況を説明すると、我が市の花火大会を

我が家の窓から屋根に出て見た環境を三脚を立てて撮影したもの。

 

 伝えたいもの、アップする使途としては

シュールでクールな地味な町の夏の夜。

僕の成り立ちや環境を少し知っている人なら

判る人には判ると思うし、豪勢な大花火大会にない趣きで渋いね。

と、少ない人数の人が思ってくれればそれで十二分である。

 

 だが

本当の内包された僕の内情は

実は違っていて

今回は僕にしては珍しく意図的に嘘をついています。

 

 

 本当のリアル心情説明は

 

家族も居なくなり、ワンコも居なくなり

この家に居る意味も無くなったなぁとか

もしかしたらもうこの場から夏を感じたり、

もしかしたら来年はもうここに立って見る事が、、、

無いかもとか、出来ないかも、

 

 とか

そんな気持ちも内包されている。

 

 ただ、写真ではそうした個人的事情や都合や心境は

出せない事もないだろうけど、

基本、すっと簡単にパッと見で伝えられるものでもないし

伝える事でもないし、伝えるべきでもない。

 

 

だから一般にアップしている所には、こうキャプションを載せたのです。

「とおく とうく」

僕の居た屋根の上の7月末'13

遠くの照りが屋根を伝い僕に届く
ドンと鳴る破動がディレイし
どこか自分の脈のよう。
第三者の方には伝わらないであろう
至極地味な夏の夜の僕の絵日記。

こう表現しました。

 

 

写真表現とはつくづく難しいものだったり

ワレを聞いてよ聞いてよと語る説明画に使うべきではなく

本当に聞いて欲しい話は

言葉で語るか文字で語らなければ伝えられない事もあると言う事でもあるなぁと。

だから映画と言う表現があったりノベルと言う表現があったりするもので

 

 時折アマサイトの写真キャプションに見られるポエムを添えるのが違うと思うのです。

僕のキャプションの中で時々「良いポエムですね」

とキャプションを言われるのは正直本望ではないのです。

僕にとっては

僕の撮った写真の想いを正確に分かってもらう為の

写真では足り無い部分の、あくまでも添語、解説でしかないのです。

それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

撮ったものを見返しながら

写真表現には時折絶対伝えられないものと

判ったらおかしいくらいのものも撮り手は内包する時があったりするなぁとか

しみじみ&しんみりと思う夜長なのでした。

 

 

 写真表現ってそれだけで全て言い切れる簡潔で完結な事も特異で得意だけれど、

それと同じくらい写真だけでは無力な事もあると思うのです。

 

 

 

 僕が

気の狂いそうなくらい、心と体が病んでいる事や

日々襲いかかる多岐にわたり色んな要因からこの町に生きる不安と闘っている事など、

写真では表せないものですね。

cozy

 

2013/08/12