画角制限

 今、SONYの機材評価をしているので

35mmと55mmで常のフォトライフの8、9割をしている。

普段の自分のフォトライフの中で

たった2つの画角で全てを切り取る事ってあるだろうか。

以前FUJIFILMの機材評価の時もそんな制限があったっが

主に使う前提は有ったけど結局常の機材を併用して走らせていた。

だが、今の僕にはその当時の半分の機材ですら

現実事情が大分違うので

併用する気力が無いと言うよりする余裕がないのだろう。

 

 

今回も本来のフォトライフと平行して走らせるべきとは思うのだが

自分の方の機材を刷新して、まだたったひと月と言う事もあって

絶対に集中出来ないだろうなと言うのがあるので

自分の方の機材は刷新をひと月遅らしたと考え、

このひと月は単焦点ツァイス2本を出来る限りの範囲で使い切り

その先また、それとこれを踏まえて考えをスターとすれば良いかなと。

 

僕の中のタイムリミットの延長が無いから

本当のフォトライフの方も、

 

もしかしたら

 

この機材評価が終わる頃には

 

もう今までのようなものにはならない事の確認を

明らかに実感と体感してしまう結果となるのかもしれない。

 

このひと月の出来事が

もしかしたら

僕のどこかで最後のスパートで

 

このひと月で

何かを諦めろと自分に言い聞かせる為の

実に良い麻酔薬なのかもしれない。

 

このまま刷新縮小した機材で撮り続けていたら

何かの糸がそろそろ切れていたかもしれない。

何かを諦め切れなくなる気持ちの喘ぐ要因になるかもしれないので

逆にブレーキがかかって丁度良いのかもしれない。

 

機材評価と言う宿題が有って

もしかしたら僕はひと月の延命で

今後のフォトライフを辛くなく緩める事が出来るのかもしれない。

 

画角制限が

 

僕に痛くない心のギブスになっていて

思うように撮れない事が

 

逆に常に抱える苦痛を安楽に緩和してくれているのかもしれない。

 

 

目の前に見えていた人生の苦痛が尋常でないのに

今日もトイレも水道も氷点下で凍ってしまったけど

水が出なくとも一晩生きられるように。

 

写真とカメラに依存しない生き方をしなくてはと

常よりカメラに触らなくては行けない時に

逆に考えさせられているような気がする。

 

 

 

人生は分らない事ばかりだ。

 

 

 

35mmと55mmだけと言う画角制限くらい

僕の人生に

今掛掛けられている制限に比べたら

どうって事の無い事のように実は今思ってしまっている。

今の僕にありとあらゆる機材が有って何でも撮って良いものだとしたら

とんでもなくド偉い汚く悲しいものと叫びを撮って居たような気がしてならない。

 

外の人が僕を見る印象の見え方が

はたから見て僕っぽく、

温厚で柔和でありつつ強く濃く、辛口な面も持ち合わせている

ちょっとだけ人より濃い目のフォトライフをする人に見える部分を

 

僕は仮面を被ってでも

残り半月は使命としてしなくてはならない。

それが今の僕に掛けられている制限。

 

実に良い感じで

崩壊しない為のブレーキになっていて助かっている。

 

僕のフォトライフの

ツールでないフォトライフ自体の刷新は

もしかしたら来月からが本当のような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

cozy

 

 

 

 

 

2014/02/11