心が写ると言うけれど


よく言われる事に

写真は心が写る、写真は写心だと。

 

 確かにそうかもしれないけれど

なら写真は写心と世慣れるようにならないのは何故か。

 

 心なくとも真が写る、

そう言う事で良いのかしら。

 

 時々、

ブログやHPで熱く熱く心を訴える人を見かけるけれど

大方はちょっと機材やフイルムやメーカーや単焦点に拘って

ちょっとノーマルの撮って出しのテイストと違う拘り屋さんが

洗脳されたように言う事になっている事が

見ていて自分も写真は写心だと言いたいのに言えなくなる要因でもあるかな。

 

 でも真でも心でも

どちらでもそうなんだけど、

痛いまでの自分の丸裸を投影し過ぎる事に

時々苦しいと思う気がする。

ノッてる時は、何でもが良い感じに良い程合いで込められるのだけれど

これが、フォトライフに限らず、生活や人生のノッていない時に

下手に込められてしまうと、なんか自分でも返してもツマらないものしか無い

そんな周期もあるような気がする。

それを、上手く山谷の高低差をコントロールするのは

知識や経験や撮影テクニックや、意図して描けるようになった人が

上手いと言われるのだろうか。

何も気をてらわずに全てがありのままのものが本当は良いのだろうか。

この辺は答えの無い部分なのかもしれませんね。

またそう言うものを求めること自体が、

写真の目的や意味や意義でもないのかもしれませんね。

 

 よく散々

好きなものを好きなようにで良いんだ。

それで全ては解決してしまうものだけれど。

それで終わるのは

確かに写真だけど、それは写真でしかない、

そうも言えてしまうよう思う時もありますね。

 

 写真や記録として

まあ奇麗に普通よりちょっと良さげに撮れるようになって、

じゃぁその先は?って考える人は

写真のその先の作品としてに拘ってしまうようになったり

そうでなく、ほんと常の日記のように日々欠かせなくなる人は

食事や日報のようであってもちょっと実のある日々になる要素でもあって

何かを残す為か、

何かを生み出す為なのか

表現の道具なのか。。。

 

 写真は写心だと

僕もつい時々言ってしまうけれど

常にそれをモットーとするのなら

あなたの心が判らないと言われても

僕は僕、私は私だから判る人に判ってもらえれば良いって言って

完結してしまって良いのかな?なあんて思ってしまいました。

 

 ブログやHPで

気取って心をアピールする事や人々に

時々だけど、さむっ、、って思ってしまう時がある。

僕ももちろん

さむっとか、ウザっとか、気取ってんじゃねえよとか

思われてしまう時があるんだろうな。。。 

 

      写真は時々

コンテストやフォトサイトだけでなく

FBやツイッターからでも

自分の意志とは違うベクトルからとか

想像を越える数やらの反応や評価が生まれたり

またその逆にどんなに発信しようが拡散しようが

自分の期待の反応が得られなかったりするものです。

 

 

 人が

自分発信とか

何かを発信するのって

 

 時々なんか

とても難しい事だなぁって思う時があります。

       


2013/01/05