写真における選手と監督の関係

 写真は

スポーツや音楽におけるバンドや一本の映画やらとまた違い、

携わるキャスト総数が少なくで最終完結まで行ってしまうものでもあります。

 

 それはソロなゴルフや武術の演舞、弾き語りのシンガーであっても

携わる要因の点数や発信や物事を開催するにあたっての環境やキャスト数においてもそうで

俄然関わる人数が少なくて写真と言うのは完結してしまうもののような気がする。

 

 大分語弊が生まれそうだけど、大きく言えばという受け取りをして貰えれば

決して間違いでは無いのではないだろうか。

 

 それは完結したものを発信する前の過程に置いてもで

音楽のような作詞作曲や歌の練習が必要なものでない事な点や

ゴルフのように使うアイテム点数に関しては写真のよう少なくとも、

会場や限定されるフィールドの規模や開催が写真はコンペでなくとも良い事もある。

写真って発表や対決の仕込みまでも少ないんですよね。

それは生産物としても同じ観点の事が言えて

お米やお肉だって流通の関わるキャスト総数と米も肉も期間と数の絶対的な限りがある訳だし

スポーツ競技なら事前のトレーニングや試練、だれでも高い所に立てる訳でない適正の問題、

音楽だって作曲能力、演奏能力、自身の歌唱レベル、持って生まれた声の要因も含む訳。

気軽な趣味の草野球だってアマバンだって、場所が必要でリーダーやメンバーが必要で、

ひとつを成し遂げる過程はなかなかの点数の積み重ねと掛け算が必要だ。

 

 写真は

時には瞬間で完結し完成し、

カメラからWi-Fiで転送しただけで入稿まで終わってしまう事もある。

音楽のように一曲に3分かからない、小説よりも短編ポエムよりも時間がかからない。

逆に言えば瞬間に理解してもらえるものであり、半面で瞬間でダメと判断もされる。

 

 ただ、

 写真は撮る瞬間の一瞬だけ更の前に作詞作曲家になったり、監督になったり

プロデューサーになったり、脚本家になったりスタープレイヤーになったりし

撮れた瞬間には写真にその熱を加えないで脇役と縁の下の力持ちとなって

写真に自我と下心やエゴを写し込んではいけない難しい瞬間芸でもあると思うんです。

きっと、簡単でいつでも思うままに、狙ったように、描いたものが撮れたら

写真ってつまんなく思えたり飽き足り長い趣味としてやれないと思うんです。

瞬間に凝縮した面白さの要因があるから

1秒で把握出来る視覚の先にその何倍もの時間を描けたり見入る事が出来るんだと思うのです。

瞬間で説明のつくもののその水面下にある

作家であり主人公であり監督であり現場の仲人であり黒子であり

そんな一人何役もを演じたり、社長であり子会社の下請けの部分までもをこなしたり

その役を遂行した入り演じたりしなくてはならないのかもしれなくてと思う時もあります。

 

 

 

 いつもいつも自分の写真は僕の感性と個性が主人公なんだでなダメなんだと思うんです。

時には完全に自分の存在の意味を伏せる現場を紹介する仲人に徹したり、

そのまま写ったものを説明したらメッセージが伝わらないものをコントロールしゴールさせる

スタープレイヤーになったりその監督やコーチに変身したりも必要なんだと思うのです。

 

 

 写真はいつも

自分を映す鏡に要素と、

自我を反映してはならない要素との

両方の混在と上手い駆け引きが必要では無いかと考えられると思うのです。

主人公と監督の両面を持ち合わせ

両面の立場でうまく立ち回る事と存在する事が

良い写真愛好家で居る為の備えていなければならない事のように思うのでした。

 

 

 

 

 

 


2014/07/20