自分の写真の育てる事。

 一番簡単なのは

自分の写真を自分が一番好きで居られる事かもしれませんね。

僕は時々

「自分の写真の一番のファンは僕自身だ」

そんな事を言っています。

 

 自分の写真を見返しても楽しめるって大事な事で、

その前提の引き算として、

旅行した事や観光した事、撮影が楽しかった事、苦労した事を

本来感情移入でプラス加点して見返してしまいがちだが、

その反対にそれらを引き算して、第三者の目で作品として

世の中で一番その写真を多い回数見た撮影者当人が

見飽きずつまらなく思わず、他の人の良い写真と並んだ上でも

作品として良い写真と思えるものがあるかって事が大事なんだと思います。

 

 自分自身が加速出来る自分の中に内包されたものを育てる事が

明日からのフィールドで良いものを発見したり、逃さず撮れる為の

一番答えに迷いのない一歩の定義なのだと今日の僕は思います。

 

 ネットでどれだけ沢山の写真を参照しても

それはアマチュアの越えられない壁が重く厚くなるだけなのかもしれなくて、

それでも人の作品を見るクセを付けないと

自分の立ち位置やレベルの誤解や錯覚をしてしまうし

知らずのうちに知らない誰かと同じ観光地や

リア充な自称写真家と同じレベルの切り口しか出来ていない事にも気付かないかもしれないから

自分がただの一般人かを確認する為にも

つまらないものや上手くない人の写真も

ずっと長く付き合って見ている人の写真の経過や進歩や衰退と

 

 それに平行して

自分の写真と自分自身をいかに冷静に判断出来て

常に自分のレベルの立ち位置が贔屓無しの適正に把握出来て

更なる弾みをもって高めて行けるよう育てられるかの鍵は

自分で自分自身をどう育てるかと自分自身で鮮度の褪せない写真を撮れるよう

自分で作り上げてゆくしか無いのだと思います。

外的刺激判断は

自分がどこに立っているレベルのなのかの

比較判断基準でしかないのだと思う。

 

 ネットで沢山写真を見て研究して評判が上がったのならば、

それは実は世の中のレベルと自分のレベルを冷静に比較判断出来たと言う事で

沢山の意見や感想があったから成長出来たのではなくて

自分で自分を世の中のアベレージの中のラインを育て成長したのだと思います。

 

 一線の写真家の中で上の方に居る人が

「人の作品を見ない」と言う話しはよくあるが、

それをキャリアだけ長い埋もれたベテランが言うのはダザいと思う。

そんなカッコ付けを変に真似るべきでは無いと思う。

円熟の為に情熱を研ぎ澄ますのと、

未熟なのに情熱を放棄するくらいの実に大きな差があると思う。

 

 講習会やセミナーや何かで学んで得た事って

育ててもらえたのではなく、刺激ある参考書のひとつであって

それを活かして自分のアベレージが上がった人を成長出来た人と言うのです。

その底上げをするのは見る事や学ぶ事は切っ掛けに過ぎず

 

 伸びた人は自分で跳ねれた人なんだと思うんです。

 

 自分以外にシャッターを押す人は居ないのだから。

 

 背中を押してくれる人は居ても自分でシャッターを押さない限り

自分の作品は絶対に生まれる事は無いのだから。

 

 だから

僕は常に自分には厳しくしていつつ

自分の写真は厳しい目で見ても

いつでも一番のファンは自分自身だと言い切れるよう保ちたくています。

勘違いの自画自賛とは違うこの感じ、

きっとこのニュアンスを分ってくれる人は多いのではないだろうか。

 

 人や人の写真から、写真集や写真展から学ぶ事や

刺激を受ける事もとても有意義だし必要だし雑誌も本も他の趣味も

全ては経験と自分形成に大事な事で学び続けなくてはならない。

でもそれは栄養補給と成長促進と自分のレベル確認であって

 

 自分自身を自分自身で育てる事は

それと同じ以上に誰にも出来ない事でもあり大切な事だ。

 

 

 自分の写真に評価をするのは自分以外の人だから評価を冷静に判断して、

自分自身の判断の上で、自分を自分で上手に育てなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

cozy

 

 

 

 

 

 

 

 

2013/11/19